2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『甘えん坊クリスチャン』 牧師コーナー(404)
多くの方が自分の信仰を語る時、たいていの場合、自分は信仰が弱いと言われます。この言葉が謙遜からのものなら良いのですが、謙遜さを盾にして甘えているケースが少なくないようです。「甘え」という言葉は広く使われていますが、周囲の人が大目に見てくれるだろうと期待して、わざと分別のない子どものように行動することです。信徒の中にも甘えん坊のような教会生活をしている方が見うけられます。
教会に通って長いのに、また社会的な経験も豊かなのに、信仰の話となると自分は教会と信徒たちから支えてもらわないとだめと話す方がいます。仮に、成長した大人が赤ん坊のように哺乳瓶を持ち歩き「ママ、僕はご飯よりママのお乳が好きだよ。」と騒ぐ人がいたとしたら、どのように対応すればよいでしょうか。呆れて開いた口が塞がらない話で相手にもしたくないというのが正直なところでしょう。
私たちは信仰生活において、まだ神様を知らない人に対しては子どもと同じように、VIPとして支えます。一人の魂が神様を知り、生きておられる神様を信じられるように導きます。すると、その人の生涯がどれほど大事であり、責任のある人生を過ごすべきであるかを悟らせることになります。問題はイエスさまを主として受け入れた後にも、相変わらず甘えん坊のような信仰生活をしている人がいることです。その人は主イエスについて間違った理解をしているか、情緒的に問題が多い人とみなすしかありません。
ですから、教会で周囲から仕えてもらえる時期は洗礼を受けるまでです。洗礼を受けるというのは、イエスさまを自分の人生の主として受け入れた印であり、これから成長するキリスト者として誰かのために仕えるという決断の意思表示です。主イエスを信じ、洗礼を授かった方なら、これ以上未熟な赤ん坊のように甘えるのは困ります。洗礼を授かった人なら、誰かに仕えることが正常なキリスト者の姿です。教会生活で甘えられるのは信仰告白して洗礼を受けるまでの話です。いまだに甘えん坊のクリスチャンがいるなら、目を覚ましてほしいですね。
教会に通って長いのに、また社会的な経験も豊かなのに、信仰の話となると自分は教会と信徒たちから支えてもらわないとだめと話す方がいます。仮に、成長した大人が赤ん坊のように哺乳瓶を持ち歩き「ママ、僕はご飯よりママのお乳が好きだよ。」と騒ぐ人がいたとしたら、どのように対応すればよいでしょうか。呆れて開いた口が塞がらない話で相手にもしたくないというのが正直なところでしょう。
私たちは信仰生活において、まだ神様を知らない人に対しては子どもと同じように、VIPとして支えます。一人の魂が神様を知り、生きておられる神様を信じられるように導きます。すると、その人の生涯がどれほど大事であり、責任のある人生を過ごすべきであるかを悟らせることになります。問題はイエスさまを主として受け入れた後にも、相変わらず甘えん坊のような信仰生活をしている人がいることです。その人は主イエスについて間違った理解をしているか、情緒的に問題が多い人とみなすしかありません。
ですから、教会で周囲から仕えてもらえる時期は洗礼を受けるまでです。洗礼を受けるというのは、イエスさまを自分の人生の主として受け入れた印であり、これから成長するキリスト者として誰かのために仕えるという決断の意思表示です。主イエスを信じ、洗礼を授かった方なら、これ以上未熟な赤ん坊のように甘えるのは困ります。洗礼を授かった人なら、誰かに仕えることが正常なキリスト者の姿です。教会生活で甘えられるのは信仰告白して洗礼を受けるまでの話です。いまだに甘えん坊のクリスチャンがいるなら、目を覚ましてほしいですね。