2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『牧場礼拝なのか、牧場集いなのか?』 牧師コーナー(548)
すべての信徒たちが知っているように、主イエス様が信じる私たちを羊と例えられました。そのことからわが教会は羊たちの集いを牧場と称し、家の教会の働きを取り組んでいます。
ところが家の教会を「牧場の集いと言うべきか、それと牧場礼拝というべきか?」という 質問してくださる方がおられました。国際家の教会ミニストリーにおいて、次のように 家の教会で集まることを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称すべきであると結論をまとめました。その根拠になる答えは次の3点です。
1.新約神学の観点から〜聖書に「その家の教会」(ローマ16:5、Ⅰコリント16:19、 コロサイ4:15、ピレモン1:12)と教えているからです。「その家の教会」つまり牧場の 集いが単なる礼拝だけの集まりではなく、礼拝、奉仕、霊的交わり、伝道、宣教活動などが含まれているからです。ですから牧場礼拝とすると礼拝だけにして奉仕と交わり、 伝道などが排除されるようになります。よって、新約聖書にある家の教会は、本質的な 目的を縮めたり、その精神を歪曲する危険性があるために牧場礼拝ではなく、牧場の集いと言います。
2.実践神学の観点から〜新約聖書による家の教会はそれぞれの賜物によってお互いに仕え合うことで神の臨在を体験するカリスマ的な交わり共同体です。そのために新約聖書にある家の教会はクリスチャンだけが牧場に集まり、礼拝することではなくて、信者と未信者が 一緒に集まります。ですから牧場礼拝ではなく牧場の集いが聖書的な教えに相応しいと 思います。
3.宣教神学観点から〜1世紀の新約聖書時代の宣教活動は元々家の教会を通して行われました。家の教会が宣教であり、宣教こそ家の教会の形成でした。牧場礼拝と言われるように、元々は礼拝式の集いであったと思いますが、そうすると牧場に招かれた未信者(VIP)たちの拒否反応への配慮(宣教論的な理解)が難しいので、家の教会を「牧場の集い」と呼び、その集いの性格を宣教共同体として理解しています。
以上の3つの観点をまとめてみると家の教会の集いを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称するのが相応しいと判断されます。これからも家の教会への聖書的な理解が 深められ、わが教会がより正しくリバイバルされるように心からお祈りしたいと思います。
ところが家の教会を「牧場の集いと言うべきか、それと牧場礼拝というべきか?」という 質問してくださる方がおられました。国際家の教会ミニストリーにおいて、次のように 家の教会で集まることを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称すべきであると結論をまとめました。その根拠になる答えは次の3点です。
1.新約神学の観点から〜聖書に「その家の教会」(ローマ16:5、Ⅰコリント16:19、 コロサイ4:15、ピレモン1:12)と教えているからです。「その家の教会」つまり牧場の 集いが単なる礼拝だけの集まりではなく、礼拝、奉仕、霊的交わり、伝道、宣教活動などが含まれているからです。ですから牧場礼拝とすると礼拝だけにして奉仕と交わり、 伝道などが排除されるようになります。よって、新約聖書にある家の教会は、本質的な 目的を縮めたり、その精神を歪曲する危険性があるために牧場礼拝ではなく、牧場の集いと言います。
2.実践神学の観点から〜新約聖書による家の教会はそれぞれの賜物によってお互いに仕え合うことで神の臨在を体験するカリスマ的な交わり共同体です。そのために新約聖書にある家の教会はクリスチャンだけが牧場に集まり、礼拝することではなくて、信者と未信者が 一緒に集まります。ですから牧場礼拝ではなく牧場の集いが聖書的な教えに相応しいと 思います。
3.宣教神学観点から〜1世紀の新約聖書時代の宣教活動は元々家の教会を通して行われました。家の教会が宣教であり、宣教こそ家の教会の形成でした。牧場礼拝と言われるように、元々は礼拝式の集いであったと思いますが、そうすると牧場に招かれた未信者(VIP)たちの拒否反応への配慮(宣教論的な理解)が難しいので、家の教会を「牧場の集い」と呼び、その集いの性格を宣教共同体として理解しています。
以上の3つの観点をまとめてみると家の教会の集いを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称するのが相応しいと判断されます。これからも家の教会への聖書的な理解が 深められ、わが教会がより正しくリバイバルされるように心からお祈りしたいと思います。