犠牲とは、国家、家族、他人のある目的のために、自分のものを捧げたり放棄したり 奪われることを意味する言葉です。犠牲は強制されることもあります。本人の望みとは 関係せず、国家や団体により強制的に、尊い自分の命を捧げさせられる場合があります。 心痛い歴史ですが、神風特攻隊のようなものがその一つと言えます。

しかし自ら犠牲する場合もあります。誰かによる威圧ではなく、自らある目的のために、自分の権利や主張を放棄することです。このような犠牲は多くの人々のためであり、 みんなに感動を与えます。その犠牲に感動された人々は、自分のために犠牲してく ださった方の美しさを覚えることになり、その犠牲に答えたい気持ちになるのは当然で あり、自然であると思います。

去る、主日午後より月曜日夕方まで、わが教会にて「アメイジング・タッチ」という 初めて開催する集会がありました。集会の全プログラムはアメリカ・シアトルにある 「兄弟韓国人教会」の信徒たちが準備し、進行を担ってくださいました。引率の牧師を 含めて24人の兄弟姉妹たちは、自分たちの職場から1週間の休暇を得て、また、 自己負担の多額の航空料とホテル代まで払う犠牲をして私たちを尋ねてくださいました。

一ヶ月前より参加者のお名前を覚えて断食して祈ってこられたと言われました。集会の 参加者たちは直接自分たちの目で見て感じましたが、彼らは私たちのためにすべての 飾り道具や小道具、そして私たちが食べるおやつまで準備し、アメリカから運んできました。これらは私たちの想像を絶する犠牲でありました。

参加者49人のわが教会の信徒たちはただ涙しか出ないまま、皆がこのような感動を 告白し、自分の人生を顧みる決断の時となりました。「60年の人生のうちにこんなに 愛されることは夢にも思わなかった」「神の愛がどのようなものであるかわかった」 「受けることばかりしていた愛を、これから分け与えたい」。

そうです。犠牲は感動を作り出し、感動が人を決断させ、そしてその人生を変えさせます。感動のある人生、感動を与える人生は自らの犠牲により経験するものです。犠牲こそ この世を変えるパワーです。 日本語の週報 ダウンロード↓↓
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4433430dbどこの教会においても、その教会の牧師がどのような意識を持って牧会をするかに よって、その教会の方向性が決まります。国内外の宣教に強烈な召しを覚えて説教し、 信徒と祈るなら、その教会は宣教志向的な教会になり、牧師が社会運動や福祉事業に牧会の目標をおいてあるなら、その教会はその方向に向かって動くだろうと思います。教会には 礼拝と宣教、教育と救済などの多くの働きが必要ですが、何よりも牧師はみことばに忠実に基づいた教会の本質的な働きをすべきです。

ところが教会が成長し、信徒の数が多くなると信仰的に弱さを覚えている方々がよく 成長できるように、直接的に影響を与えつつ、助ける責任は先に信じている先輩たちに あります。わが教会においては、牧者ご夫妻にその責任が委ねられています。 なぜでしょうか。小規模教会では牧師が家族のように信徒たちと直接お会いして交わりと 相談の相手になり、祈る機会を頻繁に持つ事ができます。しかし信徒の数が多くなると 現実的にその期待値を満たしてあげる事が大変難しくなります。それで聖書の教えに 基づいて牧会を共に担う協力者として牧者ご夫妻を立てて、彼らをとおして信仰のあり方を信徒たちが見て学ぶようにしています。

言い換えれば、牧者がどのような方であるかによって、牧員たちが変わるわけです。 牧者が魂の救いに関心があるか?牧者が主の恵みを求めて祈っているか?牧者に絶えず みことばを学ぶ姿勢があるかによって、牧員たちは知らないうちに牧者の信仰を見習う ことになります。ひとりの魂を信仰告白に導き、その人が真実なキリスト者として 変えられた人生を歩むためには単純な真似ではなく、その思考の意識まで神のことばに よって変わるべきであります。

このために、わが教会では道コースの聖書勉強を勧めています。何よりも自分自身が 道コースを通して変えられる事が最も大切ですが、隣人と一緒に成長するのがその人に おいても大切です。

あなたの牧場の家族が道コースに参加していますでしょうか。彼らを支えることは 大切です。学びの間にその子どもを守ってあげたり、道コースに参加することをためらっている牧員がいるなら一緒に再受講してください。様々なご配慮による支えが具体的な 愛の実践になり、豊かな実を結ぶことになるでしょう。