私たちは、主イエス様から、「すべての国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19–20)と命じられています。この使命は世界に向けて広がっていくものですが、その最初の一歩は私たちの家庭から始まります。弟子づくりが最初に形になる場所は家庭です。神様は、子どもをみことばと祈りと愛の中で育てるという特権を親に委ねておられます。家庭は子どもにとって最初の共同体であり、親は最初の弟子づくりの働き人なのです。
この家庭を中心とした弟子づくりは、神様がご自身の民と結んでこられた「契約」という関係に根ざしています。旧約聖書では、神様は個人だけでなく、その子どもたちも祝福の中に含めておられました。割礼は契約共同体に属する「しるし」として与えられ、子どもが理解する前から授けられていました。そしてキリストが来られ契約を成就されたとき、その「しるし」は割礼から洗礼へと移りましたが、神様の恵みのご計画は変わりませんでした。洗礼は新しい契約のしるしとなったのです。
そのため、ペテロはペンテコステの日に「この約束は、あなたがたに、そしてあなたがたの子どもたちに与えられているものです」(使徒2:39)と大胆に語りました。またパウロも第一コリント7章14節で、信仰者の子どもを「聖なる者」と呼び、神様の祝福の中に置かれていると教えています。新約聖書は、子どもが契約の民に含まれてきた長い歴史を否定するのではなく、むしろ再確認しているのです。
幼児洗礼は、この契約の現実から自然に生まれるものです。それは、子どもがすでに信仰を持っていると宣言するものでも、救いを保証するものでもありません。むしろ、子どもが神様に手を伸ばす前に、神様の約束がその子に向かって伸ばされていることを示す行為です。洗礼の土台は子どもの応答ではなく、神様の恵みの主導権にあります。家族への約束が自然と子どもを含むように、神様の契約の約束もまた、信仰者の子どもを包み込むのです。
ですから幼児に洗礼を授けるとき、私たちはその子どもを神の民の目に見える共同体へ迎え入れます。親は信仰の中で子どもを育てると誓い、教会は祈りと支えをもって共に歩むことを約束します。幼児洗礼とは、この子どもが神様の契約の中に置かれ、これから長い年月を通してキリストの約束が語られ、示され、経験されていくことを、教会が宣言する行為です。まさに素晴らしい弟子づくりの第一歩です。
趙 南洙師
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すべての教会はさまざまな活動を行っています。しかし、その活動には優先順位があるべきだと考えます。優先順位を決める基準は、「その働きがどれほど魂の救いに近いか」です。なぜなら、魂の救いこそが教会の存在目的だからです。
この原則は、戦争で戦う軍隊を思い浮かべるとよく理解しやすいでしょう。戦場には最前線で戦う歩兵部隊があり、その後方には砲兵部隊や側面を支援する戦車部隊があります。補給部隊、車両支援部隊、全体を管理する行政部隊も欠かせません。どの部隊も必要ですが、最前線で直接戦う部隊が最も重要です。他のすべての部隊は、前線の兵士が勝利できるよう支えるために存在していると言えます。
教会も同様です。悪しき暗闇の力と戦い、闇に縛られた人々を光へと導く——すなわち魂の救いの働きこそが中心であり、最も重要な活動です。教会のすべての部署は、この魂の救いを助ける方向で機能すべきです。
たとえば、地域の教会同士が運動会を行うことがあります。そのような活動は教会として大規模に参加するのではなく、希望者のみが出場し、教会は必要最低限の励ましに留めてもよいかもしれません。運動会自体は良いものですが、魂の救いとの直接的なつながりは薄いからです。
このような理由から、私たちの教会は「牧場」と「牧者」を最重要と考えています。牧場は魂の救いのために闇の勢力と戦う“最前線の部隊”のようなものであり、牧者はその最前線で暗闇と直接向き合い、一つの魂を救うために献身する責任者です。したがって、教会の予算も魂の救いに直結する働きに最も多く配分し、重点的に支援すべきです。
子どもたちへの教育や信徒の訓練も魂の救いに近い働きであり、十分な支援が必要です。しかし、教会員どうしの親睦を目的とする趣味活動など、魂の救いと直接関係がないと判断される働きについては、教会が積極的に予算を投じなくても良い場合があるでしょう。
わが教会の信徒の皆様には、教会の究極の目的が魂の救いにあることを常に覚えつつ、与えられた賜物をその目的のために用い、奉仕の優先順位を定めていただければ幸いです。
趙 南洙師