ブータンという小さな国は、「幸福度世界一」として知られています。これは、2011年に行われたブータン政府独自の調査による肯定的回答率(97%)と、国民総幸福量(Gross National Happiness)という多次元的な統計アプローチに基づいて発表されたものだそうです。しかし近年では、インターネットの普及や都市化による比較意識の拡大、経済発展による格差などの影響で、幸福度の順位が急激に下落した(国連調査では95位)と伝えられています。
 アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコで、ゴールデンゲートブリッジを渡り、北へ約23km進んだミルバレー(Mill Valley)という地域は、魅力的な自然景観、豊かな文化芸術、そして高水準の住宅環境を誇り、プールやテニスコート付きの贅沢な住宅が多いことで有名です。ところが驚くべきことに、その地域はアメリカ全土の中でも自殺率が最も高い地域の一つだと言われています。
 幸福は、人生に対する期待値と深く関係していると思います。多くを期待する人は不幸になりやすく、少ししか期待しない人は幸福を感じやすいのです。C・S・ルイスは、人生の幸福は「人生をホテルとして見るか、捕虜収容所として見るかにかかっている」と語りました。人生をホテルだと思えば、些細な不便も不満になります。人生を捕虜収容所だと思えば、それはむしろ非常に快適な場所になります。
 私は、幸福度が比較的高いほうだと思っています。それは、幼い頃の苦労の記憶が今も鮮明に残っているからです。中学生の頃、私の家は火事に遭い、破産するほどの状況に陥りました。そのような家庭で育ったため、食べ物は不足し、中学生でありながら働かなければ学校に通うことができませんでした。また、小さな部屋で八人の家族が身を寄せ合って眠っていた記憶も、今なおはっきりと残っています。だからこそ、どんな食べ物でも空腹にならずに食べられること自体が感謝であり、どのような環境でも眠れる寝床があることに感謝しています。
 その意味で、今の若者たちは、苦労の多かった親の世代ほど幸福を感じにくいのではないかと思います。多くのものを持ってはいますが、貧しさや空腹を経験したことがないため、所有しているものに対する感謝を感じにくいからです。
 霊的な面でも同じことが言えるでしょう。感謝しながら信仰生活を過ごす人がいる一方で、不平を言いながら信仰生活を送る人もいます。その違いも期待値の違いから来るものだと思います。自分が受けている祝福や、仕えることのできる奉仕の機会を恵みとして受け止める人は感謝するでしょう。しかし、それを当然の権利だと考える人は、不平を言いながら信仰生活を送ることになるのです。

趙 南洙師



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 毎週集まる牧場の集いが楽しいものであれば、毎週集まること自体が楽しみになります。では、どのようにすれば楽しい牧場の集いになるでしょうか? ポイントは、「分かち合いの時間」がうまく進められているかどうかです。「分かち合いの時間」がうまく進めば、毎週集まること自体は大きな負担にはならないでしょう。
 人には自己表現の欲求があります。職場で働く男性たちが仕事を終えた後に居酒屋へ行くのは、お酒が好きだからというよりも、一日中たまった不満やストレスを言葉にして吐き出せる機会になるからだと言われます。女性たちもさまざまな目的で集まりますが、その集まりを通し、人と話すことで心にたまったストレスを解放しています。ですから、牧場の集いの中で私たちのストレスが解消されるなら、毎週集まることを嫌がることはないでしょう。また、牧場で祈ってもらい、個人的な問題が解決されていくなら、毎週会うことを楽しみにするようになるでしょう。そのため、牧場集いは自己表現の欲求を満たす場でなければなりません。
 信仰歴が長く、聖書の学びをよくしている牧者が導いているにもかかわらず、牧場が成長しない理由は、牧場のメンバーに自己表現の機会を与えず、教えようとしてしまうことにあります。牧場の集いは教える場ではなく、互いの人生を分かち合う場です。したがって、牧場メンバーが質問し、牧者が答えるという形で集まりが進んではいけません。また、常識的な助言を与えるのもよくありません。証しを語ったり、自分の考えを整理するのに役立つような問いかけをすることが大切です。牧場の集いでは、情報の交換よりも感情の分かち合いに重点を置くべきです。スポーツや政治、経済の話題は、食事の時間であれば構いませんが、分かち合いの時間に扱うべきではありません。インターネットを見れば、ほとんどの情報は簡単に手に入ります。そうした情報を牧場の集いで分かち合う必要はありません。牧場の集いでは感情を分かち合うことが重要なのです。集いを導く人は、情報を提供するのではなく、感情を表現できるような質問をするべきです。たとえば、「どう思いますか?」ではなく、「どのように感じましたか?」と尋ねることです。
 成長していない牧場は、分かち合いの時間に情報交換ばかりが行われ、牧場メンバーの自己表現の欲求が満たされていないのではないか、ぜひ自分たちの牧場を確かめてみてください。

趙 南洙師



 私たちは、主イエス様から、「すべての国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19–20)と命じられています。この使命は世界に向けて広がっていくものですが、その最初の一歩は私たちの家庭から始まります。弟子づくりが最初に形になる場所は家庭です。神様は、子どもをみことばと祈りと愛の中で育てるという特権を親に委ねておられます。家庭は子どもにとって最初の共同体であり、親は最初の弟子づくりの働き人なのです。
 この家庭を中心とした弟子づくりは、神様がご自身の民と結んでこられた「契約」という関係に根ざしています。旧約聖書では、神様は個人だけでなく、その子どもたちも祝福の中に含めておられました。割礼は契約共同体に属する「しるし」として与えられ、子どもが理解する前から授けられていました。そしてキリストが来られ契約を成就されたとき、その「しるし」は割礼から洗礼へと移りましたが、神様の恵みのご計画は変わりませんでした。洗礼は新しい契約のしるしとなったのです。
 そのため、ペテロはペンテコステの日に「この約束は、あなたがたに、そしてあなたがたの子どもたちに与えられているものです」(使徒2:39)と大胆に語りました。またパウロも第一コリント7章14節で、信仰者の子どもを「聖なる者」と呼び、神様の祝福の中に置かれていると教えています。新約聖書は、子どもが契約の民に含まれてきた長い歴史を否定するのではなく、むしろ再確認しているのです。
 幼児洗礼は、この契約の現実から自然に生まれるものです。それは、子どもがすでに信仰を持っていると宣言するものでも、救いを保証するものでもありません。むしろ、子どもが神様に手を伸ばす前に、神様の約束がその子に向かって伸ばされていることを示す行為です。洗礼の土台は子どもの応答ではなく、神様の恵みの主導権にあります。家族への約束が自然と子どもを含むように、神様の契約の約束もまた、信仰者の子どもを包み込むのです。
 ですから幼児に洗礼を授けるとき、私たちはその子どもを神の民の目に見える共同体へ迎え入れます。親は信仰の中で子どもを育てると誓い、教会は祈りと支えをもって共に歩むことを約束します。幼児洗礼とは、この子どもが神様の契約の中に置かれ、これから長い年月を通してキリストの約束が語られ、示され、経験されていくことを、教会が宣言する行為です。まさに素晴らしい弟子づくりの第一歩です。

趙 南洙師