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 イエス様を信じる人が求める最高の幸福は何でしょう。イエス様の似姿に変えられることではないでしょうか。それは、私たちがイエス様の姿に変えられれば変えられるほど、幸せに生きられるからです。しかし、同じ教会で一緒に信仰生活をしながらも、ある信徒は大きな人生の変化を体験して、喜びのある信仰生活をします。その反面、ある信徒は人生が変えられる体験ができず、イエス様の似姿に変えられたいと願わない方がいます。
 一体何がこの大きな差を生み出すのでしょうか。それは「仕える姿勢と従順」にあるでしょう。イエス様の歩みの一番の特徴は「仕える姿勢と従順」でした。信仰生活において一番大切なのは「神様を愛し、隣人を愛すること」、つまり、「愛の関係」だと教えられました。(マタイ22:34〜40)この愛の関係の中に神の国があります。愛の関係が良い人は幸せで天国に生き、良くない人は不幸で、地獄のような人生を歩むようになります。
 そうだとすれば、私たちもイエス様のような従順を練習したいと思います。イエス様は「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:8)神様を愛する時、神の霊であられる聖霊様が私たちの心の中に、喜びを持って神のみこころに従いたいと願う思いと力を注いでくださいます。神様との関係が深くなって、御声をより良く聞くようになり、喜びを持って従えます。ですから日々黙想するみことばを通して、一つでも自分に与えられた神の御声に直ちに従ってみてください。聖霊によって築かれる、神様との縦の関係による喜びが体験できます。従順は祝福であり、特権であり、力であります。
 そして自分に託された隣人の魂に仕えてみてください。イエス様は「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために来たのです。」とおっしゃいました。(マルコ10:45)神様を愛すると、隣人にも仕え、親しい愛の関係を築くことができるようになります。今週はイエス様がお生まれになった日を記念するクリスマスの週です。聖霊様の感動に従って、隣人の魂に仕えてみてください。神様にとって一番尊い、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったように、今まで祈り、仕えてきた皆さんのVIPに訪ね、暖かい心のギフトを渡してみてください。そのVIPが皆さんの牧場に出席するか、我が教会の信徒になるか前提で行わないで、まず神の暖かい愛を受け、感じることができるように、その愛を知っておられる皆さんから先に暖かい心を持って仕えてみてはいかがでしょうか。
 隣人が立てられることを幸せと感じる皆さんが私の誇りです。

趙 南洙師



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 神様の恵みにより、我が教会が新約聖書の教える家の教会を学び、求め始めてからおよそ19年も経ちました。我が教会が追求してきたことは、主がご計画された「家々を回りながら集まる、家の教会」でした。(使徒2:46〜47、ローマ16:3〜5、14〜15、コロサイ4:15)イエス様を我が人生の主として受け入れた私たちは、いまだに足りないままではありますが、再び主が来られる日までに、この新約教会を回復するために召されたキリスト者であることを確信しています。
 ですから、我が教会はいつも忘れることなく「家の教会の核心的価値」を覚え、追求しなければなりません。それは「聖書通り!」です。以下の内容は「家の教会の核心的価値」を良く説明してくださるチェ・ヨンギ先生のFacebook(フェイスブック)から引用したものです。
 「最初に家の教会を始めようとした時には、怪しげな目で見ていた人々もいました。しかし、30年が過ぎた今となっては、聖書的な教会のモデルとして認められているように思います。それは、神学的な検証も受け、聖書的な教会の実が見えてきたからだと思います。家の教会が目指すのは、イエス様が夢見られた教会の姿を回復することです。そしてそのような教会の姿は、神学的な追論よりは聖書、特に新約聖書を通して見つけ出すべきであると考えます。そのために『聖書通り』が家の教会の核心的価値になりました。家の教会が用いる『聖書通り』とは、聖書に対する単純な理解と従順です。
 単純な理解とは、聖書がそうだと教えるならそうだと受け入れ、違うと教えるなら違うと受け入れることです。単純な従順とは、聖書が行いなさいと教えるなら行い、やめなさいと教えるならやめることです。新約教会の終着駅は、三位一体となる神様と同じである愛の共同体です。ですから完成はありません。100年、200年、500年、イエス様が再び来られる日まで目標に向かって歩むべきです。そのためには『聖書通り』という核心的価値を固く守らなければなりません。聖書のみを唯一の権威とし、教会を持続的に省察して、聖書から離れる面があれば直し、聖書から見逃した面を補完しなければなりません。交わりの中である方が『100年後の家の教会はどのような姿でしょうか。』と質問をしました。そして私は『知りません。』と答えました。家の教会が主の再臨の日まで発展し続けていくならば、100年後の家の教会は今日の姿と似ていることも、または大きく変わっていることもあるでしょう。それでも一つ確かなことがあります。『聖書通り』の原則だけは守っているでしょう。これが守られていないなら、その姿はすでに『家の教会』ではありません。」

趙 南洙師