2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『互いに罪を言い表し祈るとは』牧師コーナー(93)
先週のコラムでも触れていますが、世界的キリスト教弁証学者だったラビ・ザカリヤスが数十年に渡って数多くの女性と不適切な関係を持った事実は、世界中にいるクリスチャン世界に大きな衝撃を与えました。自分のクリスチャン団体から、ある女性には子供の学費や生活費を与えながら関係を求めた、と言う事実はあまりにも信じがたいものでした。この事実が発表され一番指摘されたのは、“なぜ誰も彼を監視下におけなかったのか?”と言うことです。つまり、彼が出張先で何をしていたのか、団体の資金をどのように使用していたかなど、なぜ彼はそんなに簡単に、皆から自分の二重生活を隠すことが出来たのでしょうか?この答えはシンプルに答えられるものではありませんが、一つ言えるのは普段から人生を分かち合い、自分の弱さと罪の傾向を分かち合う関係(accountability)が不足していたからだと思います。
ヤコブ5:16では「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」とあります。正直、これは自分が普段性的ファンタジーを持っていることを教会の皆に言いふらすことではありません。罪を言い表すことは、分かち合う対象、適切なタイミングと場を見極めてする必要があります。また、これは自分の罪を言い表しても、続けてその関係性に亀裂が起きることなく、信仰生活が共に送れると言う信頼関係を前提にしていることです(ガラテヤ6:1)。その信頼関係を築き信仰の友情を育むためにも時間が必要とされます。そして、やっと、“私の信仰は揺れている”、“私の妻への愛はもう冷めている”、また“人を赦せず、憎しみはその人を殺したいほどになっている”など本音で自分の罪深さと弱さを吐き出すことが出来ます。教会内の集まりで正直ここまで赤裸々に明かす人はいないでしょうが、それでも自分が今かなり罪の葛藤を覚えていることを表せると思います。信頼する信者たちは一緒に祈り、聖霊の助けを求め、一緒に悔い改める時間を持ち、また福音の力によって罪と戦う決意をして行くのです。
牧師でさえ、このような関係がないのであればどこかで二重生活が始まり堕落して行く可能性は高いです。牧会上、教会信徒には正直に言えないこともありますので、信頼し祈るパートナーを求め他教会の牧師たちとわかち合うことがあります。なぜ聖書は互いの罪を言い表し祈りなさいと命じていますか?それは、救われているクリスチャンでも一人で罪に打ち勝つことは出来ないからです。だから、一緒に戦うように教会と言う共同体を与えて下さいました。あなたは本当の自分を人々に知られていますか?知らせていますか?逆に面倒だと言いながらそんな関係を避けてはいませんか?これを可能にさせる教会文化は、家の教会、また同姓同士の交わりの中で互いに裁くことをやめ、まずは愛で互いを包むことであります。人は裁かれたり嫌われると思うと本音を語らなくなるからです。理想な間系を作るのは無理かも知れませんが、聖書が映し出す信者同士の関係を目指していく教会になれることを祈ります。
ヤコブ5:16では「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」とあります。正直、これは自分が普段性的ファンタジーを持っていることを教会の皆に言いふらすことではありません。罪を言い表すことは、分かち合う対象、適切なタイミングと場を見極めてする必要があります。また、これは自分の罪を言い表しても、続けてその関係性に亀裂が起きることなく、信仰生活が共に送れると言う信頼関係を前提にしていることです(ガラテヤ6:1)。その信頼関係を築き信仰の友情を育むためにも時間が必要とされます。そして、やっと、“私の信仰は揺れている”、“私の妻への愛はもう冷めている”、また“人を赦せず、憎しみはその人を殺したいほどになっている”など本音で自分の罪深さと弱さを吐き出すことが出来ます。教会内の集まりで正直ここまで赤裸々に明かす人はいないでしょうが、それでも自分が今かなり罪の葛藤を覚えていることを表せると思います。信頼する信者たちは一緒に祈り、聖霊の助けを求め、一緒に悔い改める時間を持ち、また福音の力によって罪と戦う決意をして行くのです。
牧師でさえ、このような関係がないのであればどこかで二重生活が始まり堕落して行く可能性は高いです。牧会上、教会信徒には正直に言えないこともありますので、信頼し祈るパートナーを求め他教会の牧師たちとわかち合うことがあります。なぜ聖書は互いの罪を言い表し祈りなさいと命じていますか?それは、救われているクリスチャンでも一人で罪に打ち勝つことは出来ないからです。だから、一緒に戦うように教会と言う共同体を与えて下さいました。あなたは本当の自分を人々に知られていますか?知らせていますか?逆に面倒だと言いながらそんな関係を避けてはいませんか?これを可能にさせる教会文化は、家の教会、また同姓同士の交わりの中で互いに裁くことをやめ、まずは愛で互いを包むことであります。人は裁かれたり嫌われると思うと本音を語らなくなるからです。理想な間系を作るのは無理かも知れませんが、聖書が映し出す信者同士の関係を目指していく教会になれることを祈ります。
チョ・ドリュー師