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昨日の日々のみ言葉の箇所にありましたが、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われました(ルカ9:58)。またイエスはマルコ10:25で「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」と教えられました。これらを聞いた多くのクリスチャンは“そうだ、イエスキリストが貧しく暮らしたように全てのクリスチャンは貧しく暮らすべきだ”と主張します。これを貧困の福音Poverty Gospelと言います。この観点が強いクリスチャンはリッチな暮らしをするクリスチャンたちを極端に妬み嫌います。
一方で、創世記39:2で「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり(prospered)」と書いてあります。ここで成功するとは、ビジネスに繁盛することを意味しています。マタイ25章のタラントの例え話は与えられた財産を増やすことを教えます。3ヨハネ1:2では「あなたがすべての点で幸いを得(ギリシャ語でEudowは繁盛することを意味する)、また健康であるように祈ります」と記されています。聖書が語る信者が通る苦難や迫害は無視し、これらの部分だけを切り取って主張するのを繁栄の神学Prosperity Gospelと呼びます。少し間違えれば神様をATMマシーン化させてしまう神学です。この神学に偏った多くの信者が礼拝し祈る強い動機は、健康と富であります。
聖書をこのように一方に片り過ぎて受け入れると、その信仰もまた偏ったものになってしまいます。ミニストリーをされていたイエスキリストは、定住する家はありませんでしたが、多くの人たちによってその働きは金銭的に支えられていました(ルカ8:3)。イエスに与えられたロバも、最後の晩餐をした場所も、また死後に入られた墓も全て人々の尊い献金によって支えられていました。クリスチャンが全員貧困で困っていたらあり得なかった話です。神様がクリスチャンを金銭的に成功させることがあります。でも、重要なのは、金持ちと贅沢に暮らすこととは別物だということです。金持ちであってもささやかに暮らし、主の御国のために貢献することが出来ます。逆に、貧乏暮らしをしながらお金を偶像にして生きることも出来ます。重要な点は“あなたの神(あなたが拝む神)は何なのか?”であります。もし、富があなたの頼り所で信仰が薄くなるなら、富はその人にとって祝福ではなく毒です。
マタイ19:29でイエスは仰いました、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」私たちにとって貧困の神学なのか、繁栄の神学なのか以上に重要な質問があります。それは、どのようにして私の人生を神の栄光のために捧げられるかです。お金より時間があるものは時間を捧げ、時間よりお金のある者は主の働き人を経済的に支えることが出来ます。ただ、貧困の神学と繁栄の神学によってつまずくことは避けましょう。全てを正しく裁かれる方は主です。その方を信頼し、与えられている今を忠実に生きて行きましょう。
チョ・ドリュー師
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“ねえ、恐竜は家も食べられたの?” “神様はお父さんよりも年上なの?” 子供たちは好奇心に溢れ、とてもコミカルな質問をする時が良くあります。でも、これも成長の過程であり、子供たちは沢山の質問をすることで世界の常識と物事を覚えて行きます。
私がカリフォルニアにある教会の大学部にいた時にそこの牧師は、“クリスチャン学生は自分の分野で皆世界一にならなくてはならないのです。それがクリスチャン学生の使命なのです”と言う教えに対して、“聖書のどの箇所に、私たちが世界一にならなくてはならないと書いてあるのでしょうか?”と質問したことがあります。それは教師に対する挑戦状というよりも、“それが本当に聖書の教えていることなのか”を知りたかったからです。しかし、残念ながら牧師は私の質問にあきれた顔をして、誹謗するかのように新約聖書の何箇所かを猛スピードで言い出しました。19歳であった私はその大学部ではもう質問しなくなりました。もちろん、質問の仕方も礼儀を持たねばなりません。しかし、‘もっと神様を深く知りたい’と聖書に関する質問を持つのであれば、それを簡単に踏みにじると信徒たちの成長の妨げにもなると思います。
イザヤ1:18で神は、“さあ、来たれ、論じ合おう”と私たちを論じ合う場に招かれています。ルカ7章(マタイ11章)でヨハネが二人の弟子を送って、“あなたがおいでになるはずの方ですか? それとも別の方がいるでしょうか?”と聞いて来た時にも、その疑う心を切り捨てることはなさいませんでした。ヨハネ3章でニコデモに対してもそうだったように、何度もイエスを試すパリサイ人たちの質問にも誠意を持って答えられた箇所は沢山あります。もちろん、イエスの答えを無視し自分勝手に解釈した人たちもいましたが、その答えを真摯に受け入れイエスを信じたパリサイ人たちもいました。
まだキリスト教を知らないVIPが私たちの教会に来ると、また聖書勉強会に参加すると、私たちの教会は質問出来る雰囲気なのでしょうか? それとも質問は不信仰と思われたり、軽蔑されたりする傾向があるでしょうか? 質問する人はリスペクトを持って質問し、また質問を受ける側も誠意を持って質問に応じる必要があると思います。結局、‘疑い’を感知させる質問をすると、へこませるような教会の雰囲気は、人々の信仰の成長の機会を妨げる環境になるのです。 私たちも質問の出来る教会、また人々に少しの疑いが生じたとしても、それをすぐに裁かずに、乗り越えられるように共に歩む教会になることを願います。
チョ・ドリュー師