先週の水曜日に東京都知事の記者会見で、都民に対して外出自粛を求める要請がありました。2020年東京オリンピックの開催が延期と決まった翌日から東京は新型コロナウイルスの新しい感染者数が突然倍になり、政府も都市封鎖の案まで持ち出す事態まで発展しています。私たちの教会からも何人もの神学生たちが通っている東京基督教大学も4月からの新学期を5月に延期すると今日発表しました。でも、そんな雰囲気とは裏腹に街の公園、商店街やモールには人混みが出来るほど人々が集まり、毎日都心は満員電車が走っています。何か少し矛盾した光景に戸惑う人も少なくないと思います。

では、こんな時に教会はこれからどんな計画を立てるべきでしょうか?先週までは3月一杯まではネット配信で礼拝を行い、4月5日から人数を制限して礼拝を再開する検討していました。ですが、毎日政府の発表や動きがある以上、今は何も断言出来ない状況にあります。このままであれば4月もネット配信で礼拝を守り、奉仕者以外の参加は続けて制限しながら行えればと思っています。4月中は教会内で一緒に食べる交わりも控えてもらいます。4月からネット配信での礼拝は9時30分に日本語礼拝、11時30分に韓国語礼拝(キッズ動画の配信)が持たれます。(NCC東京、品川での礼拝再開は来週中に決める予定です。) 

でも、こうなったことは教会に取って全てマイナスと言うわけでもありません。教会はもともと集まる共同体でもあり、世に散っていく共同体でもあるからです。だから、私が教会の皆さんに是非お願いしたいことが幾つかあります。

1)子供向けのYouTube動画を配信していますが、この機会に親が子供たちと一緒に聖書を読み聖書物語を子供に教えて下さい。本来、聖書的に見れば信仰教育は教会学校に任せるものではなく、親が責任を持ってやることです。子供たちに聖書を通して福音を教えて下さい。私たちの家族も良くやりますが、1010祈祷会も子供たちが寝る前に一緒に祈るのもお勧めです。この期間子供たちと信仰のことについて語り合う時間を持ちましょう。

2)普段教会に来てくれない家族を誘って一緒にネット配信の礼拝を捧げて見て下さい。教会に連れて来るのはハードルが高くても、家のリビングでネット礼拝なら抵抗はあまりないかも知れません。そして、礼拝の感想を聞いたり福音を分かち合う機会にして下さい。 

3)この期間、身近にいる人々への霊的ケアを続けましょう。牧員との連絡はもちろん、VIPや教会から離れやすい人々にも気を使い霊的に支えましょう。 

4)自己中心的にならないで、隣人愛を実践しましょう。先週から地域によってはスーパーで米が売り切れたり食糧買い占めが始まっています。 でも、こんな時期だから隣人たちと自分のものを分け合う祝福を追求しましょう。 

教会が集えないから教会で無くなるわけではありません。 礼拝がネット配信される今も私たちは生きた教会としてそれぞれの場所で働いています。 常に何が主に喜ばれる言動なのかを覚え散っている今もっと用いられる教会になって行きましょう。

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4433430db悲しいことですが私が牧会する教会を去って行った人々が多くいます。去る理由は、いろいろあり、転勤、帰国、移民、留学、また教会になじめなかったと言うようなことが上げられます。でも、ここ数か月の間に聞いた教会を去る理由は“文化的”な要素でありました。それは、“私たちは、もっと私たちの言葉、文化、また年齢にあった教会に行きます、”と言う理由でした。 私は彼らを止めたりせず、祝福して送り出しました。でも、彼らを通して教会って一体何だろう、と思わされる数週間を送りました。 

私も大学生の時は私と同年代の学生たちが沢山いる教会に通うことを強く願っていました。 そして、当時アメリカ(カリフォルニア)にいた私は自分の好みに合わせ教会を選ぶことが出来ました。私が通った教会は主に英語を使う2世アジア系アメリカ人たちが通う群れでした。 学校の白人や黒人の友人を教会に誘ったこともありますが、彼らは教会に定着することはありませんでした。教会の90%以上がアジア系の人たちだったからです。でも、そこは私に取って居心地の良い教会でした。周りを振り向くと私と外見が似ていて、また教育環境も似ていて、また皆ネイティブに英語を使いこなすアメリカナイズされた東洋人たちで構成されていたからです。これが20年前の私のGhetto化(同じ人種の人々が密着して暮らす街)された信仰の群れでした。とても楽しく、教会での礼拝と小グループが終わると、夜まで教会友人たちと食事をしたり、バスケットボールをしたり、と毎週末に飽きることはありませんでした。でも、恥ずかしいことに、教会の周りに住んでいる住民たちに伝道しようとする宣教的な心はゼロに近かったと思います。 

教会とは何でしょうか?自分と同じ人種、言語も通じる人たち、大体生活レベルも同じ人たち、また信仰のカラーも似たような人たちが集まる所が教会なのでしょうか?そのような人たちと仲良く20-30年教会生活して、天国に行ったら神様にほめられるのでしょうか?もし、それで良いと思うのであれば、それは大きな誤算だと思います。新約聖書(教会史)に出る弟子たちは全地に散って行きました!彼らは、“これから12人そろって大きな教会を建てよう!”と言いませんでした。そして、自分たちと言語と文化が違う人たちに向かって行きました。自分の居心地の良い教会を離れ行きました。迫害によって出発が早まった使徒もいれば、聖霊の御声を聞いて出て行った使徒たちもいました。それが新約聖書の教会の姿です。それは、天国を離れ自分とは根本的に全く違う私たちの世界に来て下さったイエスキリストの性質を表すことでもあります。私たちに取って一番居心地の良い教会は、このイエスキリストの宣教心を持って常に自分とは違う異文化に飛び込む教会です。なぜなら、そこに生きておられるイエスキリストが共におられるからです。 

チョ・ドリュー師