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私には、いまだに慣れない日本のキリスト教会の用語があります。それは創造主である神様を「あなた」と呼んでいることです。「あなた」という単語は、現代日本語では二人称代名詞として広く知られていますが、その成立と変遷をたどると、現在の意味や用法とは大きく異なる歴史的背景を持つことが分かります。もともと「あなた」は人を指す言葉ではなく、「彼方(あの方)」に由来する単語であり、空間的に遠い場所や方向を示す表現でした。この「距離」の概念が転じて、「彼方にいらっしゃるお方」というように、相手を直接指示せず、あえて距離を置くことで敬意を表す言い回しとして用いられるようになりました。
中世から近世にかけての日本においては、目上の人物や貴人の名前を直接呼ぶことは無礼とされる場合が多く、間接的な表現によって相手を指すことが敬意の表現とされ、「あなた」はそのような言語慣習の中で、相手を高く位置づける単語として機能しており、現在の感覚とは逆に、丁寧で格式のある言葉であったといえます。
しかし、明治期以降、日本社会が急速に近代化し、西洋語の翻訳が大量に行われ、英語のYOUに相当する二人称代名詞が必要となり、その際、既存の語彙の中から「あなた」が選ばれ、特定の敬意を伴わない一般的な代名詞として定着していきました。この過程で、「あなた」が本来持っていた敬語的な意味合いは次第に薄れ、単に相手を指すための言葉へと変化してきたと言われています。
日本語では、二人称代名詞が人間関係や社会的上下関係を強く反映するため、使用頻度が高まるにつれて丁寧さが失われやすい傾向があり、「お前」や「貴様」など、かつては敬意や改まった意味を持っていた語が、時代とともにぞんざいな表現へと変化したのと同様に、「あなた」もまたその影響を受けていました。その結果、現代では文脈によって冷淡、あるいは失礼に響く場合が多くなりました。現代日本語において敬意を示す方法は、二人称代名詞を用いることよりも、相手の名前や役職を正しく呼ぶこと、あるいは主語を省略することに重きが置かれています。そのため、「あなた」は目上の人や公的な場面では避けられる傾向にあり、使用には慎重さが求められる言葉となっています。
このように、「あなた」という言葉の歴史的変遷は、日本語における敬意表現が固定的なものではなく、社会や文化の変化とともに意味を変えていくものであることを端的に示しています。それで私は創造主である神様に「あなた」と呼びかけることに違和感を覚えるわけです。
趙 南洙師
私は説教者として、会衆が理解しやすい説教をするよう努めてきました。主日礼拝で歌う賛美歌も、できる限り親しみのある賛美を繰り返して歌うことを大切にしてきました。たとえば、開会賛美はあらかじめ定めておいた10曲の中から選び、二番目の賛美は20曲の中から、派遣賛美は説教に応答する礼拝者の決断を表す曲を選んで歌ってきました。このようにしてきた理由は、まだ信仰を持っていない新来者(求道者)がイエス・キリストを信じ、弟子となることが私たちの教会の目標であり、新来者が信仰を告白し、霊的に成長できるよう助けることに焦点を当てるべきだと考えたからです。
そのため、信徒の皆さんから「分かりやすい説教をしてくださってありがとう」と言われるたびに、嬉しく、感謝の気持ちで満たされてきました。ジョン・ウェスレーをはじめ、多くの著名なリバイバリストたちは、分かりやすい説教をすることで知られています。説教の準備を終えたウェスレーは、いつも家事を手伝ってくれていた祖母の前で、主日の説教をしてみたそうです。その祖母が理解できない言葉があると、それを分かる表現に直したという逸話は有名です。
一方で、説教を分かりやすくしようとすると、教会に長く通っている信徒から「説教に深みがない」という不満を聞くこともあります。そのような声を耳にすると、私自身も気持ちが萎縮し、より学術的な説教を語るべきなのではないかという誘惑を受けることもあります。
それでも私は、そのような誘惑に流されないよう努めてきました。これまで長い年月にわたり、多くの牧師の説教を聞いてこられた方々は、並大抵の説教では満足しにくいでしょうし、彼らの耳に心地よい高尚な説教を望むでしょう。しかし、そのことに心を囚われてしまうと、これから信じようとしている人々を取り逃がしてしまうかもしれません。
そもそも、「分かりやすい説教には深みがない」という考え自体に、私は語弊があると思っています。新約聖書の福音書に記されているイエス様の説教は、非常に分かりやすい言葉で語られたものでした。目に見える事柄を用いて、目に見えない神の国を説明し、永遠のいのちについて確信を持たせてくださいました。分かりやすい説教、分かりやすいたとえ話を通して、奥義のように深い真理を解き明かしてくださったのです。
説教によって恵みを受けるかどうかは、聞く人の心にかかっていると私は考えています。礼拝の時間に説教を聞きながら、自分の心を閉ざすのではなく、神のみことばを知りたいと慕い求める心を持つならば、どのような説教からも恵みを受けることができると信じています。
趙 南洙師
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