教会で生まれ育つと、聖書の教えが正しいということを幼いころから知ることができます。これは小さい時から福音によって生きることができる神の恵みです。そして同時に、聖書の教えに照らし合わせ、教会の姿や身近な両親がみことばによって生きているのかを見てしまいます。そして、みことばによって歩んでいない姿に「自分には『みことばに従って生きろ』と教えているのに、教えている人ができていないではないか。」と怒りに燃えるのです。
私の両親は信仰あるクリスチャンですが、ある時に、上記のことについて親を責めると「親も罪人だからね。みことばに従いきれないところがあるんだよ。」と言われ、親の言い訳だ!と怒りを覚えたことがあります。そして自分自身が成長して、その怒りが間違っていたことを知りました。間違いに気が付けたのは、①自分の罪を知ったから。②親の愛を知ることができた。という2つです。2つのことですが、実際には自分の不誠実な歩みがイエスキリストによって正されるように祈り、支え、両親が不器用に思える中でも主のおしえに従いぬいた両親の影の歩みを知ったからです。このことに気が付くまで非常に時間がかかりました。
みことばの強さは信仰者の持つ唯一の武器(エペソ6:17)です。しかし、その武器の用い方を間違え、身近な人に向けてしまったときにその傷は大きなものとなります。そして何よりもその剣の矛先を私たちはイエス様に向けてしまい十字架につけてしまったことを覚えるとき、同じことを繰り返してはならないことを学ぶのではないでしょうか?
赦しあい、愛しあえる教会や牧場でありたいと願っています。
それぞれの歩みが祝されますように。吉村恵理也
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教会で奉仕することは主から預かる大きな特権です。教会の奉仕は永遠に残る神の国の建設に役立つことであり、やり方によっては永遠の報酬を決めることになります。しかし、人が常に神の恵みと愛に満たされることなく奉仕するなら、すぐに枯れてしまうでしょう。最初は神の国のためにやっていても恵みなしで奉仕を続けるならば、人は被害意識(教会に奴隷扱いされている という意識)に陥る時があります。そして、なぜ自分は誰にも認められそうにない奉仕をしているのかとつぶやき始めます。ですから、主の恵みに出会い始めた人(VIPや新来者など)には、奉仕が大きな信仰の試練になるので、出来るだけ本格的な奉仕は待つようにお願いしています。
イエス・キリストはヨハネ15章で、ご自分をブドウの木、また私たちはその枝であると教えられました。そして、ブドウの木であるイエスにとどまる人は必ず実を結ぶと約束され、そうではない人は何もすることが出来ないと忠告されました。信仰者が実を結ぶ奉仕生活をする大きな秘訣は、続けてイエスの内にとどまることです。車もエンジンオイルなしに長く走れば、エンジンごと損傷してしまい、すぐに壊れてしまいます。信仰者が喜びを持ち、天を見上げ、奉仕が出来るのも、イエスキリストにある永遠の祝福がもう与えられているからです。 奉仕に疲れているとき、戻る場所はイエスキリストによって与えられた福音であります。その真実こそ、人間のどんな励ましや誉れよりも、私たちをもう一度、喜びの奉仕へ立ち返らせることでしょう。
それぞれの奉仕が祝されますように。チョ・ドリュー