人々との間に良好な関係を維持していたのに、ある瞬間に関係が壊れてしまうことを時々
見かけます。時間が経過した後は「私たちはなぜそうだったのか」「なぜそのように愚かな
行動をしたのか」と後悔しますが、すでに時遅しという状況になる場合が多いです。あれほど良かった関係が取り返しのつかない状況になってしまう大きな原因は、言葉の失敗にあります。人々は、自分に向けて陰湿な攻撃の言葉を聞いた時に心穏やかでいられる人は誰も
いないし、その言葉を聞いた瞬間、相手に対して怒りを感じ、信頼がなくなるだろうと思います。それにもかかわらず、これまでの良好な関係を壊さないためには、次のような基本的な二つの事を必ず守らなければなりません。
一つ目は、その言葉にすぐ反応しないで、その人がなぜそのような話をしたのか、その時の状況と実際にそのような言葉を喋ったのかを確認する時間を持つことが大事です。気分が悪くなる話を聞いたら、すぐその日の夜に尋ねるとか、一呼吸する余裕を持たず、すぐに
電話をかけたりすると、お互いが火に油を注ぐような結果になってしまいます。
二つ目は、極端な言葉を口にしない事です。自分に宜しくない話をするあの人に、言いすために極端な言葉を口にしてしまうと、一次的にはすっきりするかも知れませんが、取り
返しのつかない深い心の傷を与えることになります。極端な言葉の例として、夫婦間の喧嘩の場合でも、「もう 別れましょう(離婚)」という言葉を口にしてはいけません。牧場で
「こんな行動するなら、二度と牧場に来ないで」という言葉を喋ってはいけません。
「この教会をやめる」「二度と牧場に来ない」等の収拾するのが難しい極端な言葉使いは
警戒した方が良いと思います。
また、誰かから忠告的な言葉を聞かされ、その言葉が受け止め難いと判断された場合
いったい誰がその言葉を言ったのか?そんな言葉を喋った人を教えてくれないとあなたとも関係を切る」というような脅迫的な言葉使いはいけません。悪魔はいつも私たちの間に
言葉で喧嘩を仕掛けていることを覚えましょう。そしてどのような場合でも、極端な言葉は控えて欲しいです。「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る(箴言13:3)。」
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すべての信徒たちが知っているように、主イエス様が信じる私たちを羊と例えられました。そのことからわが教会は羊たちの集いを牧場と称し、家の教会の働きを取り組んでいます。
ところが家の教会を「牧場の集いと言うべきか、それと牧場礼拝というべきか?」という
質問してくださる方がおられました。国際家の教会ミニストリーにおいて、次のように
家の教会で集まることを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称すべきであると結論をまとめました。その根拠になる答えは次の3点です。
1.新約神学の観点から〜聖書に「その家の教会」(ローマ16:5、Ⅰコリント16:19、
コロサイ4:15、ピレモン1:12)と教えているからです。「その家の教会」つまり牧場の
集いが単なる礼拝だけの集まりではなく、礼拝、奉仕、霊的交わり、伝道、宣教活動などが含まれているからです。ですから牧場礼拝とすると礼拝だけにして奉仕と交わり、
伝道などが排除されるようになります。よって、新約聖書にある家の教会は、本質的な
目的を縮めたり、その精神を歪曲する危険性があるために牧場礼拝ではなく、牧場の集いと言います。
2.実践神学の観点から〜新約聖書による家の教会はそれぞれの賜物によってお互いに仕え合うことで神の臨在を体験するカリスマ的な交わり共同体です。そのために新約聖書にある家の教会はクリスチャンだけが牧場に集まり、礼拝することではなくて、信者と未信者が
一緒に集まります。ですから牧場礼拝ではなく牧場の集いが聖書的な教えに相応しいと
思います。
3.宣教神学観点から〜1世紀の新約聖書時代の宣教活動は元々家の教会を通して行われました。家の教会が宣教であり、宣教こそ家の教会の形成でした。牧場礼拝と言われるように、元々は礼拝式の集いであったと思いますが、そうすると牧場に招かれた未信者(VIP)たちの拒否反応への配慮(宣教論的な理解)が難しいので、家の教会を「牧場の集い」と呼び、その集いの性格を宣教共同体として理解しています。
以上の3つの観点をまとめてみると家の教会の集いを「牧場礼拝」ではなく「牧場の集い」と呼称するのが相応しいと判断されます。これからも家の教会への聖書的な理解が
深められ、わが教会がより正しくリバイバルされるように心からお祈りしたいと思います。
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