2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『真の幸せを味わいましょう』 牧師コーナー(698)
人は疑いを抱かずには生きることはできず、また疑い始めるときりがないということがあります。ある知識を得るために疑い続ける姿勢は、探求者としてあり得ることかもしれません。しかしこれは、人間関係において信頼を築き上げていく際に、互いの関係を破壊してしまう非常に致命的な姿勢かもしれません。時には損をしたくないから、または騙されたくないから疑うということもあります。ただ、その疑いを持つことで人を信じられなくなり、より苦しい思いをするかもしれません。
私たちクリスチャンは疑いによってではなく、信仰によって生きるべきであることを誰もが知っています。またその信仰も、可能な限り確信に満ちた信仰、つまり、どのような環境や条件に置かれていても、揺るがない信仰によって生きるのが重要であると知っています。
しかし、宗教改革を行うほど偉大な信仰者であったマルティン・ルターでさえ、一時的ではあるものの疑いにとらわれ、自分の計画していた全てを諦めようとした時があったと言います。ですから、信仰によって生きるクリスチャンに、疑いの思いが生じることは珍しいことではありません。
ただし注意すべきことは、疑いが生じることと信仰を離れることは別の問題だということです。私たちはさまざまな状況で生じる疑いを克服し、信仰により勝利しなければなりません。疑いと信仰は対極の概念のように見えますが、実はそうではありません。例えば、律法と恵みが対極の概念ではなく、私たちを恵みに導いてくれるのが律法であるように、私たちが信仰に導かれていく過程の中で抱くのが疑いであると覚えておくべきです。むしろ、最初から疑いの心もなく信仰に導かれるのが珍しいことなのです。疑いがあるからこそ信仰を持つことができたのです。
特に信仰によって生きようとする人に疑う心が生まれるのは、望んでいなかった困難や試みに直面した時が多いようです。避けたい困難が訪れると、納得しがたく、受け入れられない時が多いものです。そのような時に信じる人にも疑う心が生じ得るのです。
バプテスマのヨハネも牢屋に閉じ込められた時、イエス様がまことのメシアなのかを疑いました。イエスはまことのメシアだと確信に満ち、宣べ伝えたバプテスマのヨハネでさえ一時的に疑いの心が生まれ、イエス様に確認を求めた時があったのです。しかし、バプテスマのヨハネはイエス様の答えを聞いて疑いを克服し、殉教の道を歩みました。疑いを克服する信頼の再確認こそ、信仰を強める重要な要素であると言えます。ですから疑う心が生じる時には毎週行われる礼拝と牧場の交わりを通して、神様との信頼関係を再確認する直接的・間接的な神体験がありますように願います。
私たちクリスチャンは疑いによってではなく、信仰によって生きるべきであることを誰もが知っています。またその信仰も、可能な限り確信に満ちた信仰、つまり、どのような環境や条件に置かれていても、揺るがない信仰によって生きるのが重要であると知っています。
しかし、宗教改革を行うほど偉大な信仰者であったマルティン・ルターでさえ、一時的ではあるものの疑いにとらわれ、自分の計画していた全てを諦めようとした時があったと言います。ですから、信仰によって生きるクリスチャンに、疑いの思いが生じることは珍しいことではありません。
ただし注意すべきことは、疑いが生じることと信仰を離れることは別の問題だということです。私たちはさまざまな状況で生じる疑いを克服し、信仰により勝利しなければなりません。疑いと信仰は対極の概念のように見えますが、実はそうではありません。例えば、律法と恵みが対極の概念ではなく、私たちを恵みに導いてくれるのが律法であるように、私たちが信仰に導かれていく過程の中で抱くのが疑いであると覚えておくべきです。むしろ、最初から疑いの心もなく信仰に導かれるのが珍しいことなのです。疑いがあるからこそ信仰を持つことができたのです。
特に信仰によって生きようとする人に疑う心が生まれるのは、望んでいなかった困難や試みに直面した時が多いようです。避けたい困難が訪れると、納得しがたく、受け入れられない時が多いものです。そのような時に信じる人にも疑う心が生じ得るのです。
バプテスマのヨハネも牢屋に閉じ込められた時、イエス様がまことのメシアなのかを疑いました。イエスはまことのメシアだと確信に満ち、宣べ伝えたバプテスマのヨハネでさえ一時的に疑いの心が生まれ、イエス様に確認を求めた時があったのです。しかし、バプテスマのヨハネはイエス様の答えを聞いて疑いを克服し、殉教の道を歩みました。疑いを克服する信頼の再確認こそ、信仰を強める重要な要素であると言えます。ですから疑う心が生じる時には毎週行われる礼拝と牧場の交わりを通して、神様との信頼関係を再確認する直接的・間接的な神体験がありますように願います。
趙 南洙師