2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『家族と教会の働き、どちらを優先すべきか。』 牧師コーナー(709)
教会の働きを中心に生きてきた私は、昔からよく聞く言葉があります。それは「教会の働きより、家族が優先だ。」という言葉です。この言葉が生まれた理由の一つは、おそらく家族を放置し、子どもたちの面倒を見るのを後回しにして、ただ教会の働きに没頭した昔の先輩牧師の子どもたちが、道を踏み外してしまうことが多かったからではないかと思います。
そしてもう一つの理由は、最近の西洋の牧師の中に、定時に出退勤をして、他の時間には家族と過ごしたり趣味を楽しんだりする、いわば一般的な社会生活を送る牧師が多くいるからでしょう。彼らはいつも「何より家族が大切だ」と強調します。その影響も少なくないと考えられます。
私も、教会の働きより家族を優先する考えが理解できないわけではありません。ただ、牧師である以上「教会の働きより家族が優先だ」という言葉を発するのは違うと思うのが私の立場です。なぜなら、イエス様も「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)と明確に語られたからです。
もしも主のからだである教会が危機に直面した時、最終的に教会を守るために命をかけなければならないのは牧師ですから、どうして家族が優先と言えるでしょうか?もしも昔の先輩牧師たちがこう言いながら教会に仕えたとしたら、偶像崇拝である神社参拝を拒絶して殉教した、韓国の朱起瑞(チュ・ギチョル)牧師や、ナチスの圧政に抵抗したディートリヒ・ボンヘッファーのような牧師は生まれませんでした。キリスト教の力は、イエス・キリストの十字架の犠牲により生まれるのではないでしょうか。そのキリストに学び、従う牧会者が犠牲すべき大切な一つがあるとすれば「家族と子どもの犠牲」かもしれません。
とはいえ、家族や子どもたちをただ単に後回しにしてもいいと言う話ではありません。危機的な状況、または教会のために100%の時間を費やさなければならない状況ではないのに、単に自分の趣味のために子どもたちの世話を後回しにするのは、むしろ怠惰だと言えます。したがって「教会の働きと家族のうち、どちらを優先すべきか?」と問うのは、愚かな質問だと言えるでしょう。ですから私たちは、賢く時間を使いながら、家族と子どもたちとの時間を充実させるべきです。
私は子育てにおいて、多くの足りなさがあった者でした。それにも関わらず、子どもたちが健やかに成長してくれたことを感謝しています。すべては神の恵みであり、祝福です。
そしてもう一つの理由は、最近の西洋の牧師の中に、定時に出退勤をして、他の時間には家族と過ごしたり趣味を楽しんだりする、いわば一般的な社会生活を送る牧師が多くいるからでしょう。彼らはいつも「何より家族が大切だ」と強調します。その影響も少なくないと考えられます。
私も、教会の働きより家族を優先する考えが理解できないわけではありません。ただ、牧師である以上「教会の働きより家族が優先だ」という言葉を発するのは違うと思うのが私の立場です。なぜなら、イエス様も「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)と明確に語られたからです。
もしも主のからだである教会が危機に直面した時、最終的に教会を守るために命をかけなければならないのは牧師ですから、どうして家族が優先と言えるでしょうか?もしも昔の先輩牧師たちがこう言いながら教会に仕えたとしたら、偶像崇拝である神社参拝を拒絶して殉教した、韓国の朱起瑞(チュ・ギチョル)牧師や、ナチスの圧政に抵抗したディートリヒ・ボンヘッファーのような牧師は生まれませんでした。キリスト教の力は、イエス・キリストの十字架の犠牲により生まれるのではないでしょうか。そのキリストに学び、従う牧会者が犠牲すべき大切な一つがあるとすれば「家族と子どもの犠牲」かもしれません。
とはいえ、家族や子どもたちをただ単に後回しにしてもいいと言う話ではありません。危機的な状況、または教会のために100%の時間を費やさなければならない状況ではないのに、単に自分の趣味のために子どもたちの世話を後回しにするのは、むしろ怠惰だと言えます。したがって「教会の働きと家族のうち、どちらを優先すべきか?」と問うのは、愚かな質問だと言えるでしょう。ですから私たちは、賢く時間を使いながら、家族と子どもたちとの時間を充実させるべきです。
私は子育てにおいて、多くの足りなさがあった者でした。それにも関わらず、子どもたちが健やかに成長してくれたことを感謝しています。すべては神の恵みであり、祝福です。
趙 南洙師