2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『避け道を作らなければなりません。』 牧師コーナー(739)
先主日、申命記19章1-13節の神のみことばをもって、「逃れの町に入りなさい」というタイトルで説教をいたしました。皆さんは過ぎた一週間、どのようにお過ごしになりましたか。この牧師はみことばを伝えるたびに、神のみこころを語る者として、自分の器の足りなさを痛感します。神のみこころを信徒の皆さんにわかりやすく、そして適切に適用できるよう伝えるべきなのですが、いつも足りなさを申し訳なく思います。
野球に例えるなら、いつもホームランを打つことは難しいとしても、安打(ヒット)までは打たなければならないという思いで40年以上講壇に立ち、説教を伝えてきましたが、なかなか思い通りにはいきません。先週の礼拝の後も、そのような思いになりました。
神様はカナンに入るイスラエルの12部族に、それぞれの土地を割り当て、6つの逃れの町を設けるように命じました。そして、その逃れの町に至る道を備えるように命じられました。意図せず、自分も知らないうちに隣人の命を奪ってしまった人が、復讐しようと狙う家族から、自分の命を守るために、攻撃を避けて避難するところが逃れの町でした。
逃れの町は、罪の多い私たちの弱さを覆い、いのちを守ってくださる神のあわれみを現す恵みの砦です。ですから、新約聖書でいえば、イエス・キリストこそ私たちの逃れの町であり、また、キリストの体である教会(牧場)こそが今日の逃れの町だと言えるでしょう。
問題は、「罪に苦しむ多くの人々が逃れの町に逃げやすいように、その道が良く整えられているか」であって、その道を備える私たち自身をしっかり点検しなければなりません。イスラエルの地形は山と谷が多く、逃れの町に向かって急いで逃げるには多くの難しさがあったと考えられます。そのため、山を切り開いて平らな道を作り、谷と谷の間には橋を架けて、逃げる人が一刻も速く逃れの町にたどりづけるように道路を備えなければなりませんでした。人の命がかかっているからです。
しかし、今日の逃れの町と言える私たちの教会と牧場へ続く道はどうでしょうか。知らずに犯してしまった罪と過ちに苦しむ人々が訪れやすい、平らで良く整えられた道が備えられた場所でしょうか。もしくは、我が教会(牧場)は険しい高い山の上に建てられた、限られた人々だけが訪れることができるところになってはいませんか。よく見えてはいるものの、多くの条件があり、誰も入れないような、もはや逃れの町としての役割を失っているところになっていませんか。
逃れの町である教会(牧場)があったとしても、それがたどり着けない場所であるなら、その場所はもはや逃れの町(キリストの体である教会)ではありません。
野球に例えるなら、いつもホームランを打つことは難しいとしても、安打(ヒット)までは打たなければならないという思いで40年以上講壇に立ち、説教を伝えてきましたが、なかなか思い通りにはいきません。先週の礼拝の後も、そのような思いになりました。
神様はカナンに入るイスラエルの12部族に、それぞれの土地を割り当て、6つの逃れの町を設けるように命じました。そして、その逃れの町に至る道を備えるように命じられました。意図せず、自分も知らないうちに隣人の命を奪ってしまった人が、復讐しようと狙う家族から、自分の命を守るために、攻撃を避けて避難するところが逃れの町でした。
逃れの町は、罪の多い私たちの弱さを覆い、いのちを守ってくださる神のあわれみを現す恵みの砦です。ですから、新約聖書でいえば、イエス・キリストこそ私たちの逃れの町であり、また、キリストの体である教会(牧場)こそが今日の逃れの町だと言えるでしょう。
問題は、「罪に苦しむ多くの人々が逃れの町に逃げやすいように、その道が良く整えられているか」であって、その道を備える私たち自身をしっかり点検しなければなりません。イスラエルの地形は山と谷が多く、逃れの町に向かって急いで逃げるには多くの難しさがあったと考えられます。そのため、山を切り開いて平らな道を作り、谷と谷の間には橋を架けて、逃げる人が一刻も速く逃れの町にたどりづけるように道路を備えなければなりませんでした。人の命がかかっているからです。
しかし、今日の逃れの町と言える私たちの教会と牧場へ続く道はどうでしょうか。知らずに犯してしまった罪と過ちに苦しむ人々が訪れやすい、平らで良く整えられた道が備えられた場所でしょうか。もしくは、我が教会(牧場)は険しい高い山の上に建てられた、限られた人々だけが訪れることができるところになってはいませんか。よく見えてはいるものの、多くの条件があり、誰も入れないような、もはや逃れの町としての役割を失っているところになっていませんか。
逃れの町である教会(牧場)があったとしても、それがたどり着けない場所であるなら、その場所はもはや逃れの町(キリストの体である教会)ではありません。
趙 南洙師