2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『なぜ教会に集わなければいけませんか。』 牧師コーナー(756)
時々、「私は心の中で神を信じていますが、必ず教会に集わなければいけませんか?」と質問する求道者に出会うことがあります。教会という組織に縛られたくないという意味だと思います。今日は教会に集うべき理由をいくつかお話ししたいと思います。
第一に、旧約聖書を見ると、神様は私たちを「個人の信仰」ではなく、「共同体の信仰」として召されているからです。旧約聖書を少しでも注意深く読めば、神様は個人ではなく、イスラエルの共同体を神の民として、この世の中に神様を表す聖なる祭司の国として召されたことがわかります。イスラエルは最初から個々ではなく、神の国の民として、この世に神様を表す使命と責任を与えられました。ですから旧約時代において、神様はイスラエルを個人で信仰を持つ者としてではなく、最初から共に生きる共同体性を持つようにと召されたのです。しかし、旧約のイスラエルはこの共同体としての信仰の使命と召しに答えることができず、残念ながら失敗してしまいます。
第二に、神様は新約時代においても、教会を個人としてではなくキリストの体として建てて下さったからです。新約では旧約のイスラエルの失敗によって、Ⅰペテロ2:9のみことばのように、「神の民」「祭司の国」「イスラエル」という名が「教会」という名に移ります。神様の私たちへ召しは、個人の救いを超えて、この世に向けた神の国の一員としての召しです。新約聖書において語られるすべての言葉は、個人ではなく教会の共同体に向けられたものであることがわかります。呼びかけも「あなた」ではなく「あなたがた」、あるいは「あなたがたが共に」と言われています。「あなたがたが共に」という呼びかけは特定の個人を指しているのではなく、当時、共に集まっていた小さな家の教会、あるいは小さな家の教会の群れが集まって形成した地域教会の共同体への召しであることがわかります。
新約聖書の書簡もまた、教会の共同体に向けて送られた実際的な信仰生活の指針でした。したがって、教会の共同体を無視して集わず、「心の中で信じればいい」と思うのは、まるで事故によって指が切断されて落ちたのに縫合手術を拒否して、切り離された傷が腐っていくのをそのままにしておくようなものです。ですから教会の共同体を離れて無視することは、教会の頭なるイエス様を無視して拒否することと言えるでしょう。
もし模範になれなかった私たちのせいで傷つき、そのために教会を離れてこのようなことを言う方がいらっしゃるなら、まず私たちが悔い改めましょう。そして彼らが教会の共同体に再び戻れるように仕え、祈る機会になることを願います。
第一に、旧約聖書を見ると、神様は私たちを「個人の信仰」ではなく、「共同体の信仰」として召されているからです。旧約聖書を少しでも注意深く読めば、神様は個人ではなく、イスラエルの共同体を神の民として、この世の中に神様を表す聖なる祭司の国として召されたことがわかります。イスラエルは最初から個々ではなく、神の国の民として、この世に神様を表す使命と責任を与えられました。ですから旧約時代において、神様はイスラエルを個人で信仰を持つ者としてではなく、最初から共に生きる共同体性を持つようにと召されたのです。しかし、旧約のイスラエルはこの共同体としての信仰の使命と召しに答えることができず、残念ながら失敗してしまいます。
第二に、神様は新約時代においても、教会を個人としてではなくキリストの体として建てて下さったからです。新約では旧約のイスラエルの失敗によって、Ⅰペテロ2:9のみことばのように、「神の民」「祭司の国」「イスラエル」という名が「教会」という名に移ります。神様の私たちへ召しは、個人の救いを超えて、この世に向けた神の国の一員としての召しです。新約聖書において語られるすべての言葉は、個人ではなく教会の共同体に向けられたものであることがわかります。呼びかけも「あなた」ではなく「あなたがた」、あるいは「あなたがたが共に」と言われています。「あなたがたが共に」という呼びかけは特定の個人を指しているのではなく、当時、共に集まっていた小さな家の教会、あるいは小さな家の教会の群れが集まって形成した地域教会の共同体への召しであることがわかります。
新約聖書の書簡もまた、教会の共同体に向けて送られた実際的な信仰生活の指針でした。したがって、教会の共同体を無視して集わず、「心の中で信じればいい」と思うのは、まるで事故によって指が切断されて落ちたのに縫合手術を拒否して、切り離された傷が腐っていくのをそのままにしておくようなものです。ですから教会の共同体を離れて無視することは、教会の頭なるイエス様を無視して拒否することと言えるでしょう。
もし模範になれなかった私たちのせいで傷つき、そのために教会を離れてこのようなことを言う方がいらっしゃるなら、まず私たちが悔い改めましょう。そして彼らが教会の共同体に再び戻れるように仕え、祈る機会になることを願います。
趙 南洙師