2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『教会でこんな質問しちゃいけないの?』牧師コーナー(88)
“ねえ、恐竜は家も食べられたの?” “神様はお父さんよりも年上なの?” 子供たちは好奇心に溢れ、とてもコミカルな質問をする時が良くあります。でも、これも成長の過程であり、子供たちは沢山の質問をすることで世界の常識と物事を覚えて行きます。
私がカリフォルニアにある教会の大学部にいた時にそこの牧師は、“クリスチャン学生は自分の分野で皆世界一にならなくてはならないのです。それがクリスチャン学生の使命なのです”と言う教えに対して、“聖書のどの箇所に、私たちが世界一にならなくてはならないと書いてあるのでしょうか?”と質問したことがあります。それは教師に対する挑戦状というよりも、“それが本当に聖書の教えていることなのか”を知りたかったからです。しかし、残念ながら牧師は私の質問にあきれた顔をして、誹謗するかのように新約聖書の何箇所かを猛スピードで言い出しました。19歳であった私はその大学部ではもう質問しなくなりました。もちろん、質問の仕方も礼儀を持たねばなりません。しかし、‘もっと神様を深く知りたい’と聖書に関する質問を持つのであれば、それを簡単に踏みにじると信徒たちの成長の妨げにもなると思います。
イザヤ1:18で神は、“さあ、来たれ、論じ合おう”と私たちを論じ合う場に招かれています。ルカ7章(マタイ11章)でヨハネが二人の弟子を送って、“あなたがおいでになるはずの方ですか? それとも別の方がいるでしょうか?”と聞いて来た時にも、その疑う心を切り捨てることはなさいませんでした。ヨハネ3章でニコデモに対してもそうだったように、何度もイエスを試すパリサイ人たちの質問にも誠意を持って答えられた箇所は沢山あります。もちろん、イエスの答えを無視し自分勝手に解釈した人たちもいましたが、その答えを真摯に受け入れイエスを信じたパリサイ人たちもいました。
まだキリスト教を知らないVIPが私たちの教会に来ると、また聖書勉強会に参加すると、私たちの教会は質問出来る雰囲気なのでしょうか? それとも質問は不信仰と思われたり、軽蔑されたりする傾向があるでしょうか? 質問する人はリスペクトを持って質問し、また質問を受ける側も誠意を持って質問に応じる必要があると思います。結局、‘疑い’を感知させる質問をすると、へこませるような教会の雰囲気は、人々の信仰の成長の機会を妨げる環境になるのです。 私たちも質問の出来る教会、また人々に少しの疑いが生じたとしても、それをすぐに裁かずに、乗り越えられるように共に歩む教会になることを願います。
私がカリフォルニアにある教会の大学部にいた時にそこの牧師は、“クリスチャン学生は自分の分野で皆世界一にならなくてはならないのです。それがクリスチャン学生の使命なのです”と言う教えに対して、“聖書のどの箇所に、私たちが世界一にならなくてはならないと書いてあるのでしょうか?”と質問したことがあります。それは教師に対する挑戦状というよりも、“それが本当に聖書の教えていることなのか”を知りたかったからです。しかし、残念ながら牧師は私の質問にあきれた顔をして、誹謗するかのように新約聖書の何箇所かを猛スピードで言い出しました。19歳であった私はその大学部ではもう質問しなくなりました。もちろん、質問の仕方も礼儀を持たねばなりません。しかし、‘もっと神様を深く知りたい’と聖書に関する質問を持つのであれば、それを簡単に踏みにじると信徒たちの成長の妨げにもなると思います。
イザヤ1:18で神は、“さあ、来たれ、論じ合おう”と私たちを論じ合う場に招かれています。ルカ7章(マタイ11章)でヨハネが二人の弟子を送って、“あなたがおいでになるはずの方ですか? それとも別の方がいるでしょうか?”と聞いて来た時にも、その疑う心を切り捨てることはなさいませんでした。ヨハネ3章でニコデモに対してもそうだったように、何度もイエスを試すパリサイ人たちの質問にも誠意を持って答えられた箇所は沢山あります。もちろん、イエスの答えを無視し自分勝手に解釈した人たちもいましたが、その答えを真摯に受け入れイエスを信じたパリサイ人たちもいました。
まだキリスト教を知らないVIPが私たちの教会に来ると、また聖書勉強会に参加すると、私たちの教会は質問出来る雰囲気なのでしょうか? それとも質問は不信仰と思われたり、軽蔑されたりする傾向があるでしょうか? 質問する人はリスペクトを持って質問し、また質問を受ける側も誠意を持って質問に応じる必要があると思います。結局、‘疑い’を感知させる質問をすると、へこませるような教会の雰囲気は、人々の信仰の成長の機会を妨げる環境になるのです。 私たちも質問の出来る教会、また人々に少しの疑いが生じたとしても、それをすぐに裁かずに、乗り越えられるように共に歩む教会になることを願います。
チョ・ドリュー師