2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『口先だけの評価はしないでほしい』 牧師コーナー(574)
2007年7月13日、韓国センムル教会の23名の青年たちが内戦中のアフガニスタンに
訪問して、ターリバーンに拉致され、2名が殺される厳しい事件がありました。この青年
たちは、先に派遣されていた医師家族を訪問し、ボランティア活動をして、戻ってくる
最中に拉致されてしまいました。この時、韓国社会からは彼らの行動について厳しく非難
する声が多くありました。なぜ、政府が行くなと警告したのに、他の宗教を信じる人々に、なぜキリスト教を強制するのか、などの非難でした。
私はそのような発言を聞きながら怒りを覚えていました。拉致された青年たちは貧しい民族の役に立つボランティア活動のために行ったわけです。しかし非難する人々は、助けを待っている隣人のために何をしてきただろうか。自分たちは貧しい隣人のために指一本も 動かさず、助けを求める貧しい隣人に訪ねて行ったことをまるで大罪を犯した犯人 扱いにして一方的に厳しく非難したので、私は怒りを覚えていました。
私は、良い行いについて非難する声に心を痛めますが、一方で言いすぎるほどの褒め 言葉にも心の不満を覚えます。貧しい隣人のために最善を尽くす人々、自分も貧しい人生を過ごしましたが、自分よりもっと厳しい人々のために多額の奨学金を寄付する人々、善良な市民として表彰された人々、このような人々のニュースを伺うと彼らを称える声もたくさん聞こえてきます。しかし私は素朴な疑問が生じます。称える人々の中に、自分もそのように歩みたいと決心して具体的に行動する人が何人いるでしょうか。
ある悲観主義哲学者は、道徳と倫理とは豊かな人が貧しい人々をコントロールする ために作り出した手段であると定義しました。金持ちが清貧を激励し、独裁者たちが忠誠を 強調し、既得権者たちが秩序を主張し、犯罪者たちが個人の権利を叫んでいる歪曲の社会を見るなら、あの悲観主義哲学者の言葉にも意義あると思わされます。
口先だけなら、非難も、褒め言葉も美しく聞こえません。わが教会は聖書から学んだ 通り、仕えることについて語るより具体的に仕える行動に生きる牧者夫妻たちが中心に なっている教会です。聖書的な教会について語るよりも、聖書的な教会を建て上げよう として実践する家の教会の牧者たちこそ尊い存在です。
私はそのような発言を聞きながら怒りを覚えていました。拉致された青年たちは貧しい民族の役に立つボランティア活動のために行ったわけです。しかし非難する人々は、助けを待っている隣人のために何をしてきただろうか。自分たちは貧しい隣人のために指一本も 動かさず、助けを求める貧しい隣人に訪ねて行ったことをまるで大罪を犯した犯人 扱いにして一方的に厳しく非難したので、私は怒りを覚えていました。
私は、良い行いについて非難する声に心を痛めますが、一方で言いすぎるほどの褒め 言葉にも心の不満を覚えます。貧しい隣人のために最善を尽くす人々、自分も貧しい人生を過ごしましたが、自分よりもっと厳しい人々のために多額の奨学金を寄付する人々、善良な市民として表彰された人々、このような人々のニュースを伺うと彼らを称える声もたくさん聞こえてきます。しかし私は素朴な疑問が生じます。称える人々の中に、自分もそのように歩みたいと決心して具体的に行動する人が何人いるでしょうか。
ある悲観主義哲学者は、道徳と倫理とは豊かな人が貧しい人々をコントロールする ために作り出した手段であると定義しました。金持ちが清貧を激励し、独裁者たちが忠誠を 強調し、既得権者たちが秩序を主張し、犯罪者たちが個人の権利を叫んでいる歪曲の社会を見るなら、あの悲観主義哲学者の言葉にも意義あると思わされます。
口先だけなら、非難も、褒め言葉も美しく聞こえません。わが教会は聖書から学んだ 通り、仕えることについて語るより具体的に仕える行動に生きる牧者夫妻たちが中心に なっている教会です。聖書的な教会について語るよりも、聖書的な教会を建て上げよう として実践する家の教会の牧者たちこそ尊い存在です。